JOMON TRAVEL縄文を旅する

縄文アート

なぜ若き縄文アーティストはリアルをめざしたのか〜村上原野くんを偲んで Part.1

2月16日未明、村上原野くんは作陶中にくも膜下出血でこの世を去った。
その手には竹べらが握りしめられていたという。32歳の若さだった。

原野くんは、jomonism企画・制作の縄文アート展「ARTs of JOMON」の常連アーティストだ。父親は、岡山県新見市に拠点を置く縄文アーティストの猪風来さんで、親子でARTs of JOMONに参加いただく機会が多かった。だから、jomonism代表の小林武人から原野くんが亡くなったことを聞いたとき、残された猪風来さんの気持ちを思った。

すぐにお悔やみの手紙を送ると、しばらくしてメールで返事がきた。そこには最期の作品を時間をかけて磨いたこと、それは息子に語りかけ、涙を流しながらの作業だったと書かれていたが、それを春の終わりに焼くことも添えられていた。過去に猪風来さんの野焼きに参加したことのある私たちは、その野焼きに参加することが原野くんへの弔いになると思い、「できることなら参加したい」と、意志表示をしたのだった。

原野くんのこと

原野くんには2つの顔がある。ひとつは、縄文造形家としての顔。もうひとつはC++言語(という私には理解できない高度な技術)を操るコンピュータープラグラマーとしての顔。インターネットで検索すると、「狂える中3女子ボレロ村上」というハンドルネームを持つもうひとりの原野くんに出会えるが、私が知っているのは、縄文造形家としての原野くんと父親の猪風来さんのことだ。

猪風来さんは縄文土器の野焼き技法の第一人者として知られる。1978年に千葉の加曽利貝塚博物館の野焼き同好会で、縄文式の野焼き技法を復活し、それによって一躍ときの人となるが、自分にはまだ「縄文のスピリット」が足りないとし、妻のむらかみよしこさんと2人の息子とともに北海道の原野に移住し、竪穴住居をアトリエに20年間に渡り創作に励む。その猪風来さんが自らの手で産婆し、縄文式英才教育で育てたのが原野くんだった。

この頃の猪風来さんは、春から秋にかけて原生林を切り開いて作った田んぼや畑で野良仕事を行い、冬は竪穴住居のアトリエにこもって作陶するという自然のリズムに沿った創作活動を行っていた。人工的な音はラジオから流れるニュースくらいで、米も足踏み機で脱穀していたというから徹底している。

子どもは親の背中をみて育つというが、原野くんもまた粘土をおもちゃに育った。しかし、デザインを専門とする自由な校風の札幌市立高専(現札幌市立大学)に進んだ後は、ロボコンに出場するなどメカニックの世界を追求するようになる。そして、C++言語を操るコンピュータープログラミングの才能を開くのだ。

幼少時より粘土をおもちゃにしてきたということは、第二の脳と呼ばれる「手」をよく使ってきたということだ。おのずと集中力がついたと思うし、集中してものを作るという点では陶芸もプログラミングも同じ感覚があったのかもしれない。とはいえ、ドのつくほどアナログな縄文暮らしからデジタル世界への飛躍の仕方が尋常ではない。もしかして原野くんは機械的なものに飢えており、その渇望が飛距離を生んだのではないかと考えてみたが、母親のよしこさんは「それは違う」という。

「デジタルかアナログかなどという区別もなく、あの子は独特の世界を持っていました。住んでいた谷間の自然と生活、漫画や小説などの本に培われた創造力、縄文を生きる親の感化などがまぜこぜになっていたようです。数学も好きで、私の兄(数学教師)の盛岡の家に滞在中は、本棚の数学関係の本を寝っ転がって読みふけっていました。プログラミングに興味を持つと、暇があると紙に数式や英字が混ざったメモを書き連ねていたのは、数学の問題を解いているような感じでしたね」

数学が好きということは、意外と論理的だったのだろうか。原野くんは、決して多くは語らない寡黙な人だった。体格は猪風来さんゆずりでがっしりしているが、話すととてもやわらかいし、ちょっとオタクっぽかった。アニメが好きということは、時折話す言葉の端々に感じられた。それが電脳空間では「狂える中3女子ボレロ村上」として、1日多いときで30ツイート打つくらい饒舌になるので、人は見た目では判断できない。

そんな原野くんが父に弟子入りしたのは、「粘土がいちばん手になじむから」という理由からだった。縄文芸術を確立しようと長年孤軍奮闘し、岡山県新見市にその拠点となる美術館を構えた猪風来さんにとって、原野くんが後継者として名乗り出たことは大きな喜びだっただろう。師匠、弟子の関係となり、縄文式の土器作りを基礎からきっちり学び、作家としてとても充実していた時だった。それなのになぜだろう。あまりにも早すぎる死だった。

猪風来美術館へ

野焼き前日に岡山市に住む友人夫婦の家を訪ねた。妻のあきちゃんは、東京でジュエリー作家として活動してきた人で、現在私が行う黒曜石を使ったアクセサリー作りのひな形を作ってくれたのが彼女だった。3.11後、あきちゃんは岡山に移住したが、2014年に猪風来さんが発起人となって新見市の美術館でARTs of JOMONを開催したときにはワークショップの講師も務めた。それをきっかけに猪風来美術館で原野くんに陶芸を教えてもらったことがあるそうで、できるなら野焼きに参加したいという。そこで、翌朝猪風来さんに確認をとると、今回は関係者のみでやることになっているが、特別に許可をもらうことができた。

夕方、猪風来美術館の最寄の方谷駅で、やはり東京からきた映像作家の山岡さんと合流し、点火予定の18時前に猪風来美術館に到着する。美術館前の広場に作られた野炉にはすでに火が灯り、猪風来さんが我々が来るのを待ち構えていた。火除けの麦わら帽子をかぶり、革手袋をはき、綿などでできた耐火性の強い服に身を包んだ参加者の方々が、野炉の周りに集まっている。その中には、昨年隠岐を旅したときにお世話になった米子のたまさんもいる。

すぐに作品が運び出され、炉の真ん中に設置された。遺作となった作品は人の腰ほどもある大きさで、背面は原野くんがこれまで追求してきたスパイラル文様で埋め尽くされていた。しかし1/3を占める前面部には、これまでの作品には見られない表現があった。それは女性の体だった。渦巻く文様と女体はつながっていて、文様から分離して変身する瞬間をとらえたような半文半人の姿をしていた。たまさんが、「縄文のニケだね!」と歓声をあげる。確かに、ギリシア彫刻のサモトラケのニケのように、空に羽ばたこうとしているようにも見えた。

生前の原野くんにインタビューをしたことのある映像作家の山岡さんは、「なぜリアル表現に」と訝しげだ。私もそう思った。これまでの原野くんの作品にこのような写実的な表現を見たことがなかった。原野くんが粘土の上に表してきたのは文様表現で、その意味では文様主体の縄文土器の系譜を継ぐものだった。それがギリシア彫刻のようなリアリズムへと踏み込んだのだから、いったいどんな心境の変化があったのかと不思議に思った。

火のカムイに祈る

校庭に丸くきられた野炉では、遺作を囲むように火が焚かれていた。事前に聞いていた話しでは、これから明朝の日の出まで、土器を遠火であたためる「あぶり焼き」が行われる。猪風来さんが通常行う野焼きは、火の周りに作品を配置し、火のあたる位置をずらしながら全体をあぶっていくが、今回はあまりにも複雑な造形のため、焼成中の爆発を防ぐため野炉の中心に置き、周りから火を徐々に近づけて、日の出とともに火力を強める計画だという。1点に注ぐ人と木材のエネルギー量を考えると、ものすごく贅沢な野焼きだ。失敗なく焼ききろうという猪風来さんの強い思いを感じる。

土器を焼く野焼きには、これまでに何度か参加したことがあるが、作品を割れることなく焼成することにかけては、猪風来さんの野焼きは完璧だった。焼き物は水気に弱い。事前の乾燥はどの焼き物でも行われることだが、それでも粘土に水分が含まれていると焼成途中で水蒸気爆発を起こすし、地面が水分を含んでいてもダメ。だから、猪風来さんは焼く前の野炉をじっくり焼いて、土の中の水分を蒸発させる。さらに本焼きの前に作品全体をじっくりあぶることで、ほぼ割れのない完成度に導くのだ。その分、燃料となる木材を大量に使うため、野炉の脇には日本家屋の太い梁や柱、戸板などの廃材が、分類された状態で山積みに置かれていた。見ていると、みんな慣れた様子で材を抜き、火の周りに置いている。

ほどなくして、炎の前で猪風来さんが話し始めた。

「これが原野の絶作です。ほぼ9割9分完成したところで絶命しました。これは非常に複雑で華麗な文様を刻んでいます。普通の土器は1層で立体が出来上がっていますが、これは見ての通り、約4層が文様をなし、春の沸き立つ女神像が土器、すなわち大地の子宮から沸き立つように作られているようです。これを火の力で焼いて頂いて完結しないと作品として成立しません。

私たち親子の悲願は、この世に縄文(芸術)を復活させること。復活した縄文(芸術)を体得すること。そして新しく創造していくことでした。その創造の分野において、しっかりと新しい縄文の様式美を生み出すことが私たちの悲願だったんです。そして原野はそれを見事にやり遂げた。つまり1万3千年間の縄文の造形美を復活させ、それを新しい21世紀の縄文流儀の様式を確立したのがこの作品だろうと思っています。

原野はこの作品1点を1月中旬からまる1ヶ月間かけて作りました。それを私が約1ヶ月かけて磨き上げました。そして、今日および明日2日間かけて焼き上げることで、この作品に新しい命と魂が宿るはずです。それらをみなさんとともに成し遂げたいと思います。

今日は新月ですので真っ暗闇になります。いくら投光器で照らしても肉眼でこの作品の色を見分けるのは不可能です。太陽の光のもとでみた色調でこの作品がどういう状態にあるかを理解することができるのです。ですから、明日の6時か7時くらいに日が射して、色調から温度がわかれば、それにふさわしいように木を積む。それまではこの火円陣で焼いていきます。

0時以降の1時から5時くらいまでの間に急激にここが冷えるということがあります。雲がかかっていないとすれば、放射冷却現象で急激に冷える時間帯が3時から5時の間に必ず来ます。それによって一気に焼き物を冷やしてしまうことがあるので、冷気に対抗する火力を考える必要があります。

そこをクリアすると太陽が出て全体を温めます。太陽の力は実に偉大です。私たちがいくら火を焚いても太陽の力にはかないません。それほどパワフルな存在です。焚いている火に太陽が降りそそぐと、パワーで野炉が活気づき、野焼きが進行します。今日はこのように静まり返っていますが、明日は風も強まるそうです。明日風が少し吹いてくれると、空気が供給されて野炉の状態がよくなっていくでしょう……」

続いて、野炉に向かい合うようにカムイノミが始まった。カムイノミはアイヌ民族の伝統儀式で、アイヌの人々は何か願いごとがあるときに囲炉裏などの火に向かって祈り、用意した酒や食べ物を火に捧げてきた。この場合、火のカムイは人間の願いを自然界のあらゆるカムイたちに伝える役割を担っている。火のカムイを通じてギフトをもらったカムイたちは「こんないい思いをするなら」と、人間たちの願いを叶える。アイヌの中でもカムイノミに対する考え方はさまざまあるが、カムイノミはアイヌとカムイの近しさを物語る儀式だと思う。

猪風来さんは北海道時代にアイヌから直接カムイノミの仕方を習い、縄文野焼きカムイノミと銘打ち、野焼きの前後に必ずこの儀式を行ってきた。先ほどの話しにもあったように、野焼きは人間の力だけではできない。雨が降ると当然焼くことができないし、風が強過ぎると火が大きくなりすぎてしまう。山の天気は変わりやすい。雲の動き次第で冷気や暖気などが炎に影響を与えるので、野焼きが成功するかどうかは、まさに天の采配とそれを見定める人間の知恵にかかっている。だからこそカムイに贈りものをし、人間に有利に事を運ぶのがカムイノミの狙い。野焼きは人と自然界との共同作業なのだ。

「神様に祈るなんて、そんな非科学的なこと」と、思う人もいるかもしれない。しかし、野焼き歴40年の猪風来さんがカムイノミを必ず行うのは、それが「効く」からだ。ここに来る前に猪風来さんと電話で天気について話したときも「不思議と野焼きをしている間は晴れるんだ。先日も終わったら雨が降ってきてね」と話していた。きちんと祈ると願いは届くものらしい。もちろん、信じるか信じないかはあなた次第だけど。

( Part2へ続く)


村上原野くんの作品が見られる展覧会
「村上原野追悼~渦巻く翅(つばさ)のヴィーナス展」

会期 2020年9月1日(火)~12月26日(土)
休館日 月曜日(冬期12月~1月は月・火曜日)
猪風来美術館(新見市法曽陶芸館)
岡山県新見市法曽609 TEL・FAX (0867)75-2444
詳しくはコチラ

「縄文のスピリットに基づきながら現代に生きる己の感性で
土と炎と大自然に向き合い、縄文の新時代の美を求めてゆく。
やがて皆がそれを感じ、縄文のあたらしい渦が新星のように
生まれてゆく時代――スパイラル・ノヴァの訪れを予感しています。」(村上原野)

今年2月16日未明、作品制作中に手に竹べらを持ったまま32歳の若さで突然逝ってしまった村上原野。
完成直前の絶作となった「渦巻く翅のヴィーナス」をはじめ、10年間に渡って制作された渾身の珠玉作品と
その濃密な創作の過程を一挙展示します。

なぜ若き縄文アーティストはリアルをめざしたのか〜村上原野くんを偲んで Part.2

勾玉でできたアート

 陽も暮れて薄暗くなってきた。野炉の周りが落ち着いていたので、校舎に展示された原野くんの作品を見ることにした。猪風来さんに案内されて1階の展示室に入ると、そこは法曽焼作品の部屋だった。法曽焼とは、美術館のある法曽地区で江戸後期に途絶えてしまった幻の陶磁器で、それを現代に復興をしたのも猪風来さんの功績のひとつだ。展示室には、猪風来さんの法曽焼作品のほか、原野くんの手がけたものもあった。

それは8月30日まで開催中の企画展「地より来て地に還るもの」のメインとなる作品だった。猪風来さんの話しによると、絶作の前作にあたるもので「死」をテーマにしているという。赤黒い陶磁器上に鈍く光って流れる渦の起点を指さした猪風来さんは「これはすべて勾玉でできているんだ」と話す。よく見ると、目の前の作品は、勾玉のしっぽを伸ばしたスパイラル文様で埋めつくされていた。

勾玉は縄文時代から古墳時代まで装身具として作られてきたものだ。勾玉の形については、動物の牙を原形とする説や、半割れした玦状耳飾りを再利用したものなどいくつかの説があるが、猪風来さんは「胎芽(胎児の前の段階)の形で、すべての生命の源を表している」として、呪術具だと捉えている。

母親の子宮に着床した小さな受精卵は分裂を繰り返し、魚から両生類、は虫類と、生物の進化の形を辿るが、その初期の形はどの生物も同じ勾玉のような形をしている。猪風来さんは狩猟をしていた頃の人々は、そのことを知っていたと踏んでいる。なぜなら、仕留めた動物を解体し、食べるのが当たり前の暮らしだったからだ(さらに付け加えるなら、流産の多い時代で、自分から流れてしまった胎芽を見る機会があったということも留意しておきたい)。胎芽をいのちの最初の形として認識していた古の人々は、そこに見えない力を感じ、見たままに勾玉をつくり、さらにその形を発展させて土器の上に渦を描いたとする考えが、猪風来さんの縄文芸術の根幹をなしている。

その思想は原野くんにも受け継がれ、より明確にキレのあるスパイラル造形となって、目の前に置かれていた。下から沸き立つようにのぼるいくつもの渦の真ん中にはどれも勾玉があった。じーっと見ていると吸い込まれそうになるサイケデリックな渦は、S字を描きながら上昇し、トップで角を持つ雄鹿の頭に変化していた。その目は勾玉の生命感を断絶するように閉じられていた。リアリズムへの道は、この頃から始まったのだろうか。絶作へ至る道が少しずつ見えてきた。

猪風来さんは野焼きの現場に戻り、私たちはさらに原野くんの作品を見るために2階の展示室へと上がった。階段を登って左の奥にある部屋に入ると、釉薬のかかっていない野で焼かれたザラザラとした土器がずらりと並んでいた。

原野くんは父の猪風来さんに弟子入りしたとき、3年間徹底的に縄文土器の模写を叩き込まれた。猪風来さんが縄文のスピリットを体得するために北海道の原野に分け入ったように、縄文1万年の手仕事を自分のものにするには、まず模倣からというわけだ。壁際には、その頃作ったと思われる縄文土器や土偶が並んでいた。すべていちから粘土を輪積みして作ったものだと思うが、型取りしたレプリカに見えるくらい本物そっくりだった。

次に原野くんが初期に作ったオリジナル土器を見る。それが初期の作品だと知っているのは、この土器を焼いた2014年の春の野焼きに私たちも参加していたからだ。口縁部が流線型になった土器は、jomonism代表で3DCGデザイナーの小林武人がライブペインターの坂巻義徳 a.k.a sense の絵をモデリングし、3Dプリンターで出力したパーツを原野くんに渡して出来たコラボ土器だった。

最初にこの作品をみたとき、土でできた土器なのに、モーターショーに展示されるコンセプトカーのような近未来感を感じたのを覚えている。それは口縁部についた武人のパーツから受ける印象だけではなかった。改めてじっくり観てみると、文様を構成する線に迷いがなく、とてもシャープなのだ。曲線にキレがあるので、スピード感が出る。何のスピードかというと、竹べらを持つ手のスピードだろう。そのスピーディーで流れるような文様が、流線型を描くコンセプトカーのようにキレキレに見えるのだった。

当時、出来上がった作品を見た武人はこんなことを言っていた。
「ずっと模写をしていたからだと思うけど、人のラインをたどるのがすごくうまい。パーツから流れるラインの部分とか、何も言わなくても僕らの形を理解してくれている。すごいと思った。仕上げもとても丁寧だし、土っぽくて自然な雰囲気の猪風来さんの作品とはまた違うんだよね。縄文と現代の感覚が原野くんの中で融合して次世代の土器に昇華されているんだよ」

2年程前になるが、ある縄文ムック本の記事を書くにあたり、原野くんに簡単な電話取材をしたことがある。そのとき彼は初期の創作の源流を北海道で過ごした幼少時代の原風景に求め、あの頃の自分にあった縄文(子ども)の感性を掘り起こすことから始めたと言っていた。そしてこう話していた。

「縄文土器の文様には世代を越えて語り継がれ、地層のように蓄積された世界観があるのだから、その世界観を、現代の自分も学び、取り込んで、次の人間に新たな縄文の種として引き継いでいきたい」

その言葉通り、初期の頃と思われる作品には二つのリングが表裏一体になった双眼や三つ又の三叉文、縄目といった縄文土器に見られる形が散りばめられていた。しかし、順を追うごとに縄文土器っぽさはなりを潜め、曲線への過剰な追求が行われていくのがわかった。部屋の中央に並んだ作品群になると、文様が意志を持った生命体のように大きくうねり、アメーバ状にねじれている。口縁部は閉じられ、もはや器でもなかった。

縄文土器の中には、中部高地に見られる水煙文土器や信濃川沿いの火焔型土器、あるいは3D感が半端ない会津式土器のように過剰な装飾性、立体文様を持つ土器があるが、あれらはあくまでも鍋や瓶といった生活用具だった。縄文土器の面白さはそこにある。なぜ煮炊きに使う鍋に複雑な文様を施したのかということについては、山岡さんの監督した『縄文にハマる人々』を参考にして頂きたいが、縄文土器のデザインは土器の中身(食料としての植物や動物)との関係や、狩猟採集民の世界観(神話観)の共有、血族や出身を表す必要性など、様々な理由があった上で機能していたものだと思う。

しかし、猪風来さんも原野くんもそのような背景から一切切り離された現代に生きている。現代における土器の創造は自己表現なのであって、とくに鍋や器である必要性はない。だから、原野くんは縄文土器の大前提である「器」から離れ、文様のエッセンスを抽出したエネルギー体のようなオブジェとして表したのだろう。

2年前の電話取材で原野くんが話していた内容を紹介したい。
「いま作っている作品は、渦を巻いて動き続けるという縄文(文様)本来の特徴をよりダイナミックに表現したもの。縄文の伝統的な様式には法則性があるが、様式の移り変わりの中でうつろうもの。一万年以上、縄文たらしめた根源にある精神性や哲学が大事で、僕は、自分の作品に”いのち”を込めている。それは土器そのものが”いのち”であるという哲学なんです」

文様(パターン)というものは、制限がなければどこまでも無限に増殖することができる。イスラム教寺院などの例をみても、壁・天井・床などの平面は、アラベスク文様で敷き詰められているはずだ。こと粘土での文様表現になると、平面という制約もなく、文様は縦横無尽に動ける。そのありさまは、自然界のいたるところで増殖するものたち(枝を広げる樹木や樹皮に根を卸す地衣類、生い茂る野草、春になると湧きだすカエルの卵など)の姿に見ることができる。そのような途切れることのないいのちのループは、ときに美しく、ときに恐ろしくなるほどグロテスクだ。そして、生命の持つそのような本質が原野くんの作品群にはよく表れているのだった。

「グロテスク」「装飾」という言葉についての補足

現代では漠然と「気味の悪いもの」をさす「グロテスク」だが、ケルト美術研究の第一人者である鶴岡真弓さんの『「装飾」の美術文明史』(NHK出版)によると、グロテスクという言葉は15世紀の皇帝ネロの「黄金の館(ドゥムス・アウレア)」の洞窟(グロッタ)を連想させる半地下の壁に描かれていた奇妙で不合理で過剰な装飾に起因するという。廃墟となったその建物を再発見したのは、16世紀のイタリア・ルネサンスのラファエロをはじめとする芸術家たちで、植物から人間へ、鳥が人間へ、などという空想に満ちた装飾に刺激を受け、こぞって装飾表現に取り入れたことから、「グロッタ」もの、すなわち「グロテスク」と呼ばれるようになった。鶴岡さんは、ルネサンスの芸術家たちが膨らませたグロテスク装飾は、「ありえない自然」であり「反自然」的だが、同時に細部に徹底した自然観察による自然主義が見られると指摘している。

つまり、「グロテスク」という概念は、もともとは古典美の復興と徹底した自然観察によって創作された装飾の世界から生まれた言葉であり、人を惹き付ける魅力に満ちた世界観があることをここに書いておきたい。ついでに「グロテスク」の語源となった「洞窟」についても言及すると、人が住居で暮らす以前の住まいは洞窟だった。長い期間、暗闇とともに暮らしていた人間には闇という属性があり、それが古い段階の文化では、ストレートに表現されていることが多い。そこにルネサンスの芸術家たちも反応したのではないだろうか。美という価値観は人によってさまざまだが「美しさ」を求める人間の心性は、闇(グロッタ、グロテスク)を知っているから生まれたこと。闇がなければ、美もないのである。

また、縄文土器の文様は「装飾」ではないと思われる方もいるかもしれない。「カザリ」という言葉に対して嫌悪感を抱く人は多いのか、この本もまた、「いつの世にも人は虚飾に欺かれる」というシェイクスピアの『ヴェニスの商人』の引用から始まり、「人は『飾り』とか『装飾』というものを、反射的に『嘘』や『愚かしさ』と結びつけてみることが多い」と指摘している。そして、その考え方が最高点に達したのが、20世紀のモダンデザインにおける、建築家ミース・ファン・デル・ローエが提唱した「レス・イズ・モア(飾りを少なくすればするほど、より機能的な生活ができる)」なのだと。

しかし、飾ることは人間だけが行う行為ではない。「蝶の羽や魚の皮膚や草木の蔓草や花びらなど、自然界全体が『装飾』の営みを持っている。そのなかで人間も『飾る動物』の一員」であり「単に人間の芸術行為に『カザリ』が添えられるというのではなく、文化のコアから現れる人間存在の本質の部分、それが『装飾』」なのだと。その文脈で言えば、縄文土器の文様とは芸術が生まれる以前にあった、この「装飾」行為の源流にあたるものだと思う。そこには、洞窟のごとく真っ暗な竪穴住居で暮らしていた「闇を知っている」人々が求めた、美の形があるはずなのだ。

( Part3へ続く)


村上原野くんの作品が見られる展覧会

「村上原野追悼~渦巻く翅(つばさ)のヴィーナス展」

会期 2020年9月1日(火)~12月26日(土)
休館日 月曜日(冬期12月~1月は月・火曜日)
猪風来美術館(新見市法曽陶芸館)
岡山県新見市法曽609 TEL・FAX (0867)75-2444
詳しくはコチラ

「縄文のスピリットに基づきながら現代に生きる己の感性で
土と炎と大自然に向き合い、縄文の新時代の美を求めてゆく。
やがて皆がそれを感じ、縄文のあたらしい渦が新星のように
生まれてゆく時代――スパイラル・ノヴァの訪れを予感しています。」(村上原野)

今年2月16日未明、作品制作中に手に竹べらを持ったまま32歳の若さで突然逝ってしまった村上原野。
完成直前の絶作となった「渦巻く翅のヴィーナス」をはじめ、10年間に渡って制作された渾身の珠玉作品と
その濃密な創作の過程を一挙展示します。

なぜ若き縄文アーティストはリアルをめざしたのか〜村上原野くんを偲んで Part.3

火と向き合うということ

校庭に戻ると、山岡さんが「ものすごく艶かしくなっていますよ」と野炉の作品を指して言った。最初に据え置かれたときよりも、表面がねっとりと艶を帯び始めていて、まるで汗をかいているように見える。心なしか色も黒ずんだ気がする。炎によって粘土の中で化学変化が起こり始めているのだ。

野焼きに立ち会うと、火の力を思い知らされる。いまこのあぶり焼きの火ですら、1mも近づけないほどの熱量がある。これが明日の本焼きになれば、太陽からの熱量も加わり圧倒的なパワーとなって土器を覆い尽くすのだ。土器は火の力の賜物。腐ってなくなることが宿命の有機物だらけの世界にあって、土を半永久的な形にしたのが火の力だ。火の利用は科学の始まり。鉱物から銅や鉄などを精錬するのも火を扱える技術がなければ始まらない。人間は火を扱うことを通して文明を切り開いてきた。

しかし、いつしか私たちの社会は火を避けるようになった。囲炉裏の火はストーブに代わり、ゴミの野外焼却はダイオキシンが発生するとして禁止された。やがてストーブもエアコンに置き換わり、IHコンロを導入したオール電化の住宅にする人も少なくない。今ではキャンプ場やBBQ場といった限られた場所でしか火を焚くことは許されていない。この野焼きも、消防や自治体への届け出を出した上で行われているはずだ。

たしかに火は危険だし、環境問題にも配慮しなければならない。しかし、暮らしから火を使う機会がなくなることの方が、いろんな意味でリスクがあるような気がしてならない。なぜなら、火の危険性を学ぶ機会ごとなくなるわけだから。

その意味で、土器を焼く野焼きは火の扱い方を学ぶよい機会だと思う。小さな火から大きな火まで体験でき、化学繊維の服は溶けやすいとか、風の強さで火がどう燃えるか、乾燥した木材の火付きの早さなども体感でわかる。猪風来さんはより多くの人が縄文の精神を理解し、縄文造形が定着することを願って、年に2回、春と秋に野焼きを行っているが、それは裏返すと、火の教育をしているようなものだ。土器がうまく焼けるということは、火を上手に扱えるようになった証でもあるのだから。

野炉の周りでは、女性たちが燃えている柱に臆することもなく手をかけて、炎の位置を整えていた。火の扱いがうまく阿吽の呼吸でことが進んでいくのは、見ていてとても安心感があった。

訪れたスランプ

今回の野焼きに集まった人たちは、年齢の幅もさまざまだ。近隣の方もいれば、あきちゃんのように岡山に移住してきた人、旅の途中で偶然ここを見つけ、以来野焼きに参加しているという遠方の方もいた。みんな原野くんの追悼がしたいと集まった方々だった。

広場の端にある工房では、それら参加者が自由に食べられるよう、おにぎりや豚汁、サンドイッチのほか、持ち寄りのお菓子や惣菜が大量に用意されていた。そのテーブルの上に、今年の春の野焼きで焼いたという原野くんの遺作が2つ並んでいた。

小ぶりな作品のほうは、ゆるいカーブを描くS字文様が上へ上へと延びており、透かしの入った面白い形をしていた。しかしもうひとつの作品は、下から続く華麗な文様帯が口縁部で唐突に途切れ、のっぺりとした無文部で終わっていた。

猪風来さんによると、原野くんは口縁部まできて、突然この続きが作れなくなったという。超絶技巧の持ち主で、追求するテーマもしっかり確立していた原野くんが、これを境に冬まで粘土を握れない日々が続いたというのだ。いったい何があったのだろう?

それは、一昨年(2018年)の夏のことだという。ちょうど東京の国立博物館で「縄文―1万年の美の鼓動」展が開催され、縄文ブームが沸き起こっていた頃だ。山岡さんの『縄文にハマる人々』も公開され、映画に登場した猪風来さんや原野くんにも注目が集まっていた時期だと思う。理由はわからないが、子どもの頃から疑いもなく触ってきた粘土への思いがしぼんでしまったのだ。それは粘土を触る自分への信頼が失われてしまったということではないだろうか。

母親のよしこさんにそのときの原野くんの様子を聞くと、粘土造形ができなくなっただけでなく、対人での関わりを避けて、なかば“うつ状態”のようだったという。本人から「そっとしておいてほしい」という要望があり、猪風来さんもよしこさんもストレスを与えないよう見守るしかなかった。しかし、あるとき急に『山に行きたい』と言い出した原野くんは、テントや寝袋をもって、ひとりで隣接する広島県の山に出かけたという。

ある意味、それはネイティブアメリカンにおける成人の通過儀礼、ヴィジョンクエストのような体験だったのだろうか。将来的に猪風来美術館を継いでいくことが決まっていても作家として確立できるかはまた別の話しであり、自分は何がしたいのか、どうあるべきなのかなどと色々考えたいことがあったのだろう。原野くんは山から還ってくると、翌春に決まっていたアメリカでのワークショップの準備に少しづつ取りかかるようになったという。

アメリカ行きの話しは、jomonismのメンバーである陶芸家の大藪龍二郎がその前年度にアメリカに住む友人と企画した続編にあたる機会だった。このとき原野くんはアメリカ側との対応を行い、猪風来さんとともにコロラドの大地で陶器をつくり、野焼きを完遂した。それら一連の経験が糧になったのか、帰国後は吹っ切れたように再び粘土に向き合えるようになったという。そこで生まれたのが法曽焼の雄鹿の作品だ。原野くんは半文半獣の表現に手応えを得たのだろうか。次に半文半人の縄文のニケ(仮題)に挑むのだ。

外に出ると、新月だというのにそれほど星が見えなかった。薄く曇っているのかもしれない。そのせいかそれほど冷込みもきていなかった。野炉では燃焼時間の長い太い木材が時折火の粉をあげて、おだやかに燃えている。野炉の脇で、あきちゃんが静かに涙を流しながら物思いにふけっていた。他の人たちも静かに野炉の作品を見守っていた。深夜0時を過ぎ、女性から男性へ野焼きスタッフの交代が行われたところで私たちは引き上げ、美術館内の使っていない展示室で寝袋を敷いて寝た。

炎を吸って色を変えていく

翌朝、5時を過ぎたところで猪風来さんが私たちを起こしに来た。本焼きが始まるという。火を強めるのは6時か7時くらいからと聞いていたのにだいぶ早い。きっと野炉の土器が待ってくれないのだろう。校庭に出て、寝ぼけ眼で野炉を見ると、青みがかった朝の薄明かりの中で原野くんの縄文のニケ(仮題)はびっくりするぐらい真っ黒になっていた。これは粘土の温度が上がり、煤の吸着が進んだためだ。猪風来さんが丹念に磨いた表面はブロンズ像かと思うくらい黒光りしていた。

火円陣の範囲はだいぶ狭まり、男たちが太い材を井げた状に組んでいく。こうして炎の高さを出していくことで、作品は火で包まれる。その状態を猪風来さんは「火の子宮」と呼ぶ。土は650℃を越えると粘土に戻らなくなるという。土の中に含まれる結晶状の水分が650℃を境に飛ぶためだ。それ過ぎると、粘土の色は黒から赤へと変化するそうだ。猪風来さんの野焼きでは上まですっぽり炎で覆う子宮状態で800℃や900℃を目指す。

7時を過ぎると山際から朝日が差し込んできた。轟々と火力を増した野炉から天に向かってつむじ風が巻き起こり、そこに朝日が当たって何かの合図のように見えた。作品の下半分が赤く染まり出したのが肉眼でも確認できる。問題は、複雑な造形をした背中側で、そこも均等に温度を上げていくために猪風来さんは後ろ側の火の当たり方により注意を払っていた。

8時半を過ぎ、野炉の周りで歓声があがる。とうとう炎の高さが作品を越え、井げたの上に板材が渡されたのだ。作品は炎に包まれとうとう見えなくなった。野焼きの最終局面である火の子宮だ。仕上げに細い枝が周囲に立てかけられると、炎が天を目指して立ちのぼる。一同静かに見守ると、燃焼して弱まる炎の中から、全体が赤茶色に染まった作品が表れた。煙の中から表れた姿は、まさに「ヴィーナスの誕生」といった初々しい雰囲気で、難産で生まれた子どもみたいだった。それまでの緊張感がほどけ、抱き合って涙する参加者もいる。きっと、この瞬間を一番見たかったのは原野くんだっただろう。

2014年に原野くんが最初にオリジナル土器を焼いたとき、感想を聞いたら「わが子のようです」と笑って答えたのを思い出す。その笑顔の後ろに束ねられた髪の毛先はちりちりに焼けていたっけ。雄鹿の作品が「死」をテーマにしていたことから、この作品のテーマは「生」なのではないかと猪風来さんはいう。その「生」の実感は、野焼きという火との丁々発止のやりとりを経験して得られる深い実感なのかもしれない。原野くんは、熱と格闘してものを生み出すことの清々しさを感じていたんだな。

土の手触りや火の熱量が魅了する世界がある。そこは、人間界と自然界がちょうど重なり合う地点。自然界の生き物はDNAというプログラミングされたコードによって、いのちをつなぐように設計されているが、原野くんはきっとそのコードを粘土で表現しようと奮闘していたに違いない。この粘土でどこまで複雑にできるか。重力に逆らってどこまでのばすことができるのか。あらゆるパワーバランスの整合性をとりながら、常に変化し続けるいのちの躍動感を焼き付けようとした。シンプルなモダンデザインに慣れた私たちは、そのうごめく姿にぎょっとする。けれど、文様に埋め尽くされた作品は、こう訴えかけてくる。人間もまた変化し続ける自然の一部なのだということを。

なぜ原野くんはリアリズムをめざしたのか。そのことに大きく関係する話としては、やはり女性との出会いがあったということを最後に書いておきたい。その女性の心境を察すると、詳しくはここに書かないが、原野くんは幸せの絶頂にいた。最愛の人との出会いが土器の女神化を後押しした原動力となったのは間違いないようだ。

(FIN)


村上原野くんの作品が見られる展覧会

「村上原野追悼~渦巻く翅(つばさ)のヴィーナス展」

会期 2020年9月1日(火)~12月26日(土)
休館日 月曜日(冬期12月~1月は月・火曜日)
猪風来美術館(新見市法曽陶芸館)
岡山県新見市法曽609 TEL・FAX (0867)75-2444
詳しくはコチラ

「縄文のスピリットに基づきながら現代に生きる己の感性で
土と炎と大自然に向き合い、縄文の新時代の美を求めてゆく。
やがて皆がそれを感じ、縄文のあたらしい渦が新星のように
生まれてゆく時代――スパイラル・ノヴァの訪れを予感しています。」(村上原野)

今年2月16日未明、作品制作中に手に竹べらを持ったまま32歳の若さで突然逝ってしまった村上原野。
完成直前の絶作となった「渦巻く翅のヴィーナス」をはじめ、10年間に渡って制作された渾身の珠玉作品と
その濃密な創作の過程を一挙展示します。

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