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なぜ若き縄文アーティストはリアルをめざしたのか〜村上原野くんを偲んで Part.1

2月16日未明、村上原野くんは作陶中にくも膜下出血でこの世を去った。
その手には竹べらが握りしめられていたという。32歳の若さだった。

原野くんは、jomonism企画・制作の縄文アート展「ARTs of JOMON」の常連アーティストだ。父親は、岡山県新見市に拠点を置く縄文アーティストの猪風来さんで、親子でARTs of JOMONに参加いただく機会が多かった。だから、jomonism代表の小林武人から原野くんが亡くなったことを聞いたとき、残された猪風来さんの気持ちを思った。

すぐにお悔やみの手紙を送ると、しばらくしてメールで返事がきた。そこには最期の作品を時間をかけて磨いたこと、それは息子に語りかけ、涙を流しながらの作業だったと書かれていた。そして、それを春の終わりに焼くことも添えられていた。過去に猪風来さんの野焼きに参加したことのある私たちは、その野焼きに参加することが原野くんへの弔いになると思い、「できることなら参加したい」と、意志表示をしたのだった。

原野くんのこと

原野くんには2つの顔がある。ひとつは、縄文造形家としての顔。もうひとつはC++言語(という私には理解できない高度な技術)を操るコンピュータープラグラマーとしての顔。インターネットで検索すると、「狂える中3女子ボレロ村上」というハンドルネームを持つもうひとりの原野くんに出会えるが、私が知っているのは、陶芸家としての原野くんと父親の猪風来さんのことだ。

猪風来さんは縄文土器の野焼き技法の第一人者として知られる。1978年に千葉の加曽利貝塚博物館の野焼き同好会で、縄文式の野焼き技法を復活し、それによって一躍ときの人となるが、自分にはまだ「縄文のスピリット」が足りないとし、妻のむらかみよしこさんと2人の息子とともに北海道の原野に移住し、竪穴住居をアトリエに20年間に渡り創作に励む。その猪風来さんが自らの手で産婆し、縄文式英才教育で育てたのが原野くんだった。

この頃の猪風来さんは、春から秋にかけて原生林を切り開いて作った田んぼや畑で野良仕事を行い、冬は竪穴住居のアトリエにこもって作陶するという自然のリズムに沿った創作活動を行っていた。人工的な音はラジオから流れるニュースくらいで、米も足踏み機で脱穀していたというから徹底している。

子どもは親の背中をみて育つというが、原野くんもまた粘土をおもちゃに育った。しかし、家には唯一買ってもらったゲーム機があり、その影響からか、デザインを専門とする自由な校風の札幌私立高専に進んだ後は、ロボコンに出場するなどメカニックの世界を追求するようになる。そして、C++言語(という私には理解できない高度な技術)を操るコンピュータープログラミングの才能を開くのだ。

ドのつくほどアナログな縄文暮らしからデジタル世界への飛躍の仕方が尋常ではないが、環境を考えると原野くんが機械的なものに飢えていたことは想像がつく。子どもは自分が持っているものより持っていないものに敏感に反応する。「なんでうちだけないの?」という言葉を子どもはよく口にするが、その渇望が飛距離を生んだのではないだろうか。また、幼少時より粘土をおもちゃにしてきたということは、第二の脳と呼ばれる「手」をよく使ってきたということだ。おのずと集中力がついたと思うし、集中してものを作るという点では陶芸もプログラミングも同じ感覚があったのかもしれない。

原野くんは、決して多くは語らない寡黙な人だった。体格は猪風来さんゆずりでがっしりしているが、話すととてもやわらかいし、ちょっとオタクっぽかった。アニメが好きということは、時折話す言葉の端々に感じられ、そこも電脳空間の住人としての一面につながっているのかもしれなかった。

そんな原野くんが父に弟子入りしたのは、「粘土がいちばん手になじむから」という理由からだった。縄文芸術を確立しようと、長年孤軍奮闘し、岡山県新見市にその拠点となる美術館を構えた猪風来さんにとって、原野くんが後継者として名乗り出たことは大きな喜びだっただろう。師匠、弟子の関係となり、縄文式の土器作りを基礎からきっちり学び、作家としてとても充実していた時だった。それなのに、なぜだろう。あまりにも早すぎる死だった。

猪風来美術館へ

野焼き前日に岡山市に住む友人夫婦の家を訪ねた。妻のあきちゃんは、東京でジュエリー作家として活動してきた人で、現在私が行う黒曜石を使ったアクセサリー作りのひな形を作ってくれたのが彼女だった。3.11後、あきちゃんは岡山に移住したが、2014年に猪風来さんが発起人となって新見市の美術館でARTs of JOMONを開催したときにはワークショップの講師も務めた。それをきっかけに猪風来美術館で原野くんに陶芸を教えてもらったことがあるそうで、できるなら野焼きに参加したいという。そこで、翌朝猪風来さんに確認をとると、今回は関係者のみでやることになっているが、特別に許可をもらうことができた。

夕方、猪風来美術館の最寄の方谷駅で、やはり東京からきた映像作家の山岡さんと合流し、点火予定の18時前に猪風来美術館に到着する。美術館前の広場に作られた野炉にはすでに火が灯り、猪風来さんが我々が来るのを待ち構えていた。火除けの麦わら帽子をかぶり、革手袋をはき、綿などでできた耐火性の強い服に身を包んだ参加者の方々が、野炉の周りに集まっている。その中には、昨年隠岐を旅したときにお世話になった米子のたまさんもいる。

すぐに作品が運び出され、炉の真ん中に設置された。遺作となった作品は人の腰ほどもある大きさで、背面は原野くんがこれまで追求してきたスパイラル文様で埋め尽くされていた。しかし1/3を占める前面部には、これまでの作品には見られない表現があった。それは女性の体だった。渦巻く文様と女体はつながっていて、文様から分離して変身する瞬間をとらえたような半文半人の姿をしていた。たまさんが、「縄文のニケだね!」と歓声をあげる。確かに、ギリシア彫刻のサモトラケのニケのように、空に羽ばたこうとしているようにも見えた。

生前の原野くんにインタビューをしたことのある映像作家の山岡さんは、「なぜリアル表現に」と訝しげだ。私もそう思った。これまでの原野くんの作品にこのような写実的な表現を見たことがなかった。原野くんが粘土の上に表してきたのは文様表現で、その意味では文様主体の縄文土器の系譜を継ぐものだった。それがギリシア彫刻のようなリアリズムへと踏み込んだのだから、いったいどんな心境の変化があったのかと不思議に思った。

火のカムイに祈る

校庭に丸くきられた野炉では、遺作を囲むように火が焚かれていた。事前に聞いていた話しでは、これから明朝の日の出まで、土器を遠火であたためる「あぶり焼き」が行われる。猪風来さんが通常行う野焼きは、作品の数があるため、火を真ん中にして、周りに作品を配置し、火のあたる位置をずらしながら全体をあぶっていくが、今回はあまりにも複雑な造形のため、焼成中の爆発を防ぐため野炉の中心に置き、周りから火を徐々に近づけて、日の出とともに火力を強める計画だという。1点に注ぐ人と木材のエネルギー量を考えると、ものすごく贅沢な野焼きだ。失敗なく焼ききろうという猪風来さんの強い思いを感じる。

土器を焼く野焼きには、これまでに何度か参加したことがあるが、作品を割れることなく焼成することにかけては、猪風来さんの野焼きは完璧だった。焼き物は水気に弱い。事前の乾燥はどの焼き物でも行われることだが、それでも粘土に水分が含まれていると焼成途中で水蒸気爆発を起こすし、地面が水分を含んでいてもダメ。だから、猪風来さんは焼く前の野炉をじっくり焼いて、土の中の水分を蒸発させる。さらに本焼きの前に全体をじっくりあぶることで、ほぼ割れのない完成度に導くのだ。その分、燃料となる木材を大量に使うため、野炉の脇には日本家屋の太い梁や柱、戸板などの廃材が、分類された状態で山積みに置かれていた。見ていると、みんな慣れた様子で材を抜き、火の周りに置いている。

ほどなくして、炎の前で猪風来さんが話し始めた。

「これが原野の絶作です。ほぼ9割9分完成したところで絶命しました。これは非常に複雑で華麗な文様を刻んでいます。普通の土器は1層で立体が出来上がっていますが、これは見ての通り、約4層が文様をなし、春の沸き立つ女神像が土器、すなわち大地の子宮から沸き立つように作られているようです。これを火の力で焼いて頂いて完結しないと作品として成立しません。

私たち親子の悲願は、この世に縄文(芸術)を「復活」させること。復活した縄文(芸術)を「体得」すること。そして新しく「創造」していくことでした。その「創造」の分野において、しっかりと新しい縄文の様式美を生み出すことが私たちの悲願だったんです。そして原野は、それを見事にやり遂げた。つまり1万3千年間の縄文の造形美を復活させ、それを新しい21世紀の縄文流儀の様式を確立したのがこの作品だろうと思っています。

原野はこの作品1点を1月中旬からまる1ヶ月間かけて作りました。それを私が約1ヶ月かけて磨き上げました。そして、今日および明日2日間かけて焼き上げることで、この作品に新しい命と魂が宿るはずです。それらをみなさんとともに成し遂げたいと思います。

今日は新月ですので真っ暗闇になります。いくら投光器で照らしても肉眼でこの作品の色を見分けるのは不可能です。太陽の光のもとでみた色調でこの作品がどういう状態にあるかを理解することができるのです。ですから、明日の6時か7時くらいに日が射して、色調から温度がわかれば、それにふさわしいように木を積む。それまではこの火円陣で焼いていきます。

0時以降の1時から5時くらいまでの間に急激にここが冷えるということがあります。雲がかかっていないとすれば、放射冷却現象で急激に冷える時間帯が3時から5時の間に必ず来ます。それによって一気に焼き物を冷やしてしまうことがあるので、冷気に対抗する火力を考える必要があります。

そこをクリアすると太陽が出て全体を温めます。太陽の力は実に偉大です。私たちがいくら火を焚いても太陽の力にはかないません。それほどパワフルな存在です。焚いている火に太陽が降りそそぐと、パワーで野炉が活気づき、野焼きが進行します。今日はこのように静まり返っていますが、明日は風も強まるそうです。明日風が少し吹いてくれると、空気が供給されて野炉の状態がよくなっていくでしょう……」

続いて、野炉に向かい合うようにカムイノミが始まった。カムイノミはアイヌ民族の伝統儀式で、アイヌの人々は何か願いごとがあるときに囲炉裏などの火に向かって祈り、用意した酒や食べ物を火に捧げてきた。この場合、火のカムイは人間の願いを自然界のあらゆるカムイたちに伝える役割を担っている。火のカムイを通じてギフトをもらったカムイたちは「こんないい思いをするなら」と、人間たちの願いを叶える。アイヌの中でもカムイノミに対する考え方はさまざまあるが、カムイノミはアイヌとカムイの近しさを物語る儀式だと思う。

猪風来さんは北海道時代にアイヌから直接カムイノミの仕方を習い、縄文野焼きカムイノミと銘打ち、野焼きの前後に必ずこの儀式を行ってきた。先ほどの話しにもあったように、野焼きは人間の力だけではできない。雨が降ると当然焼くことができないし、風が強過ぎると火が大きくなりすぎてしまう。山の天気は変わりやすい。雲の動き次第で冷気や暖気などが炎に影響を与えるので、野焼きが成功するかどうかは、まさに天の采配とそれを見定める人間の知恵にかかっている。だからこそカムイに贈りものをし、人間に有利に事を運ぶのがカムイノミの狙い。野焼きは人と自然界との共同作業なのだ。

「神様に祈るなんて、そんな非科学的なこと」と、思う人もいるかもしれない。しかし、野焼き歴40年の猪風来さんがカムイノミを必ず行うのは、それが「効く」からだ。ここに来る前に猪風来さんと電話で天気について話したときも「不思議と野焼きをしている間は晴れるんだ。先日も終わったら雨が降ってきてね」と話していた。きちんと祈ると願いは届くものらしい。もちろん、信じるか信じないかはあなた次第だけど。

( Part2へ続く)


村上原野くんの作品が見られる展覧会

新作縄文法曽陶展
-地より来て地に還るもの-
2020年6月2日(火)~8月30日(日)
猪風来美術館(新見市法曽陶芸館)
岡山県新見市法曽609 TEL・FAX (0867)75-2444
詳しくはコチラ


縄文スパイラルアーツ展

2020年7月28日(火)~8月2日(日)
岡山県天神山文化プラザ(第2展示室)
岡山市北区天神山町8-54 TEL086-226-5005
入場料 無料
主催 縄文スパイラル
連絡先 猪風来美術館(℡0867-75-2444)
詳しくはコチラ

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